少年詩2010

アクセスカウンタ

zoom RSS 少年詩時評『自由なのは?』

<<   作成日時 : 2017/08/20 07:48   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

少年詩時評「自由なのは?」
                          佐藤重男
 □
先日、「現代詩」をまとめ読みしました。
そのうちの、いくつかの詩集の冒頭に掲げられている作品の出だしの部分を記すと、


 亀待ち     日和聡子

八時までにカメは帰つて来ますよ
そうのんさんに言われて
待つていた

のんさんは庭で花に水をやつていた
わたしは縁側で出された電話帳を操つていた

               「びるま」青土社 2002.5 



 私を底辺として。     三角みづ紀 

私を底辺として。
幾人ものおんなが通過していく
たまに立ち止まることもある
輪郭が歪んでいく、
私は腐敗していく。

           「オウバアキル」思潮社 2004.10 



 塗り絵     齋藤恵美子

輪郭だけのウグイスを
いろえんぴつで
父は、さぐり
「好きな色に塗ってください」
真っ赤なウグイスが、できあがる

           「最後の椅子」思潮社 2005.6 



 小さな舟の歌     清水哲男

私がまだ舟ではなかったころ
まだ川も海も見たことがなかったころ
山奥の一本の樹木として立っていたころ
鳥たちが小さな枝で深呼吸をしていたころ
獣たちが気まぐれによりかかっていたころ

               「黄燐と投げ縄」書肆山田 2005.11 



 待望     渡辺めぐみ

悲しみよりも低く明日であるもの
それはかつてペルソナと命名されたこともある
網膜の中で進化が始まり
笑うことをやめた月
朽ち始めた鰯

               「光の果て」思潮社 2006.4 



 溝     井坂洋子

俯瞰図を書けない蟻の足が透き通ってくる
かげろうが立つ道の 端に寄れば反対側が翳
り どちらに寄っても炎暑に灼かれる 前頭
葉の溝まで干涸びるようだ その溝に沿って
歩き続ける 生垣の向こうを横切るのは級友

                  「嵐の前」思潮社 2010.10 



 朝     広田修

開かれた朝の冷淡は舌の上に
夜闇が傾く
燐を見たカササギの子は
深く苦い光の中に 痙攣する
Audivisti?

      「Zero」思潮社 2015.3 



 部屋に雨が降り注ぐ     草野早苗

鎧戸を閉めカーテンを閉める
一条の光も忍び込まないように
そうして床に座る
灰色の石の床

              「夜の聖堂」思潮社 2016.5 


 □
とまあ、こんな具合です。
制約や決まり事などなく、皆、自由に書いている、そんな感じを持たされてしまうのですが、それがまた「現代詩は難解」という説につながっているのかも知れません。
少年詩・童謡は、どうでしょうか?
主に子ども読者に向けて書かれていること、したがって、分かりやすい言葉、平易な表現が要求されることは、本ブログでも何度も言ってきたことですが、それは、色んな制約や約束事に縛られていることを意味するのだから、現代詩とは真逆だということになり、当然、「それは窮屈でしょうね」と感じられる方もおられるかも知れません。
では、そのことを確かめてみましょう。(各詩集の巻頭に収められている作品の出だし5〜6行)

 みかんかんかん     柿本香苗

デコポンポンポン たんこぶポン
いよかんかんかん おひさまみかん
ぶんたんたんたん いいちょうし
はっさくさくさく はなさくころ
    略
                  『ペンを持つとボクね』竹林館 2016.2



 あしたおしえてあげる     佐野のり子

わかっているよ
宇宙飛行士になって
銀河に行きたいて思っていること
どの星がいいのかい
アンドロメダ
カシオペア
  略
                 『ミミズのバイオリン』花梨社 2016.4



 たんじょうび     いちかわゆう

きちょうがあとをついてきて
なにかわたしにいいたそう
どこまでもあとをついてきて
わたしをわらわせたいのかな
それともきょうはわたし
はなをさかせているのかな

                 『ぱちぱちしぜん』ぶんしん出版 2016.10



 三角定規     檜 きみこ

まよいはない
この角度で
とんがるってきめた

                『小さな詩集 16号』「小さな詩集の会」2017.4


 □
どうでしょうか? 少年詩・童謡の書き手たちは、不自由さを感じている、ということになるでしょうか。
いいえ、だと思います。
わたしは、少年詩・童謡の方が、自由であり、むしろ、現代詩の方に不自由さ・窮屈さを感じてしまうのです。
現代詩は、「ことば」の遣い方から自由であるように見えて、実は、そうではないのではないだろうか、と思うのです。それは、先に挙げた作品からも窺えます。
例えば、
日和聡子の「亀待ち」では、「八時までにカメは帰つて来ますよ/そうのんさんに言われて/待つていた」(『びるま』青土社 2002.5)
というように、本来なら「っ」とするところを「つ」としている。これは、明らかに「本来は」への抗いであり意図的なものです。
また、               
三角みづ紀の「私を底辺として。」では、「輪郭が歪んでいく、/私は腐敗していく。」(『オウバアキル』思潮社 2004.10)
と、自虐的なと思われる表現を遣うことで、ここでも「常識からの逸脱」を意図していると読みとれるのですが、それはむしろ、何かを限定的に指示していることにつながるという意味では、かなり不自由さを覚えさせられてしまいはしないでしょうか。
つまり、ここで紹介した現代詩では、「なんでもあり」というように装いながら、実は、「何か」からの逸脱や逃亡を意識しているという点で、―「言葉」を否定し、あるいは拒否することを「言葉」でしか果たしえないのだとしたら―、言葉遣いに対して不自由であり、窮屈であることにほかならず、それが実は、「現代詩は難解である」ということの正体なのではないか、と。

 □
お気づきの方も多いかと思いますが、わたしの言説は、実は、古びた旧弊に属するものです。つまり、「言葉を言葉で否定する」というもの言いは、もう四十年以上も前の言説といっていいものです。
そういう意味では、現代詩の「現在」とは大きくかけ離れている、という批判もあって当然です。ですが、わたしの古びた言説は、妙に今の現代詩と親近感を持っている、そう思えてならないのです。
否定のための否定、見せかけの逃亡…、そうなのでしょうか。
だとしたら、それも、現実の一つの「映し絵」として受けとめるしかないのかも知れません。
日々、ことばと闘っている、現代詩はその先駆者として常にその期待を背負わされる、それを不自由な・窮屈なことと決めつけてしまうこと、それは不毛なことなのか、それとも、現代詩の課題として究められるべきことなのか、それもこれも含めて、わたし自身に跳ね返ってくることは言うまでもありません。なぜなら、少年詩・童謡の書き手たちもまた、日々、ことばと「闘っている(=向き合っている)」からです。
ただ、イメージとしては、現代詩が甲冑に身を堅めた中世の騎士だとしたら、少年詩・童謡は、ランニングシャツと短パン姿の「裸の大将」に近いのではないでしょうか。もし、このイメージが、共有されるものだとすれば、どちらが不自由で窮屈か、言うまでもないことかも知れません。

なお、齋藤恵美子の「塗り絵」(『最後の椅子』思潮社 2005.6)は、ほかとの違いを感じさせるものになっていますが、それは、この詩集が、介護士として介護施設の認知症のお年寄りとの関わりなど、日々の出来事を言葉に綴ったものだからではないでしょうか。介助の相手につい声を荒げてしまう、そんな自分に気づく、その時の心のあり様を丁寧に書き留めていることに、こちらの心も揺さぶられます。ぜひ、手にして欲しい一冊です。

     ―この項 完―

いつものことですが、作品の引用にあたっては、誤字・脱字等のないよう努めましたが、お気づきの点がありましたらお知らせください。

2017/8/18


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
少年詩時評『自由なのは?』 少年詩2010/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる