少年詩2010

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<<   作成日時 : 2017/09/03 08:07   >>

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同人誌『おりおん 55号』を読む
                   佐藤重男
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同人誌・少年詩と童謡『おりおん 55号』(織音の会 2017.8)が届きました。
本号には、同人11人の作品24編などが収められています。
いつものように、順に見ていくことにします。

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水戸 育「手の平」「満月」「小さなスプリング」
作品「手の平」を読んでいて、思わず自分の手の平を見つめてしまいました。「手であるのに勇み足」(ダジャレ?)のひとことが、重たい空気を払いのけ、作品との距離を縮めてくれました。二連目、「空」「雲」などによって、何か「悠久の時」のようなものに包まれている「わたし」がいることに気づかされます。「心地よい水が/体中に流れていくだろうか」は、やや情に流されている感じもありますが、わたしたちをホッとさせてくれる力を持っていると思います。
作品「満月」は、「へらへら笑っている」「へらへらゆれている」など、自虐的ともとれる場面があるのですが、それは、「なにかを通す」せいだと、作者は言います。「何か」とは、既存の概念であったり、世の常識と呼ばれるものを指しているのであり、さらには、誰かにいい人≠ニ思われたくて媚を売ってしまう、そんな自分への警告なのかも知れません。
「へらへらするな」と。
作品「小さなスプリング」は、小さいことはイコールちっちゃなことではない、とわたしたちの常識への警告の意味が込められているとも読み取れます。道ばたに転がっている小さな石ころにも、存在意義がちゃんとあるように、と。「ぼく(スプリング)」と「話者」の対話形式で書かれているのですが、それは、作品「満月」でも採られている形式ですが、それによって何か新しい境地を切り拓こうてしているのでしょうか。

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菊池貴子「光」「昼の月」
一生動くことはないのですから、慰められ、励まされていい「ボク」(灯台)が、「キミ」を慰め励ます。そこにこの詩の勘所があるのかも知れません。足元は照らせないけれど、その光は「どこまでも どこまでも」届く、そんな当たり前のことが、「旅立つキミ」への励ましになるのだとしたら、…。
作品「昼の月」は、夜空を見上げることなど、ましてや、月を仰ぎ見る事などほとんどなくなってしまった現代のわれわれにとって、「白く小さな/昼の月」など見つけようもないのかも知れませんが、そのことを知ってかどうか、「昼の月」は、「頑張らずに/静かに 静かに/はるかに いるだけ」です。でも、そんな存在に気が付いたとき、わたしたちにはたしかな何かが作用する、そんなことを教えられた気がします。
余談になりますが、四歳になる孫が、暗くなると「外へ行こう」と誘ってきます。二人で外へ出てみると、孫が何かを探してでもいるように、空を見上げます。
いつだったか、夜の散歩に出たとき、ちょうど満月がのぼりはじめていて、その満月を孫がじっと見つめていたことがありました。…孫はお月さまを探していたのですね。

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浜野木 碧「ワイパー」「きましたよ」「せんぬき かんきり」
作品「ワイパー」は、「あっち 行って そっち 行って/そっち 行って あっち 行って」がなんとも絶妙で笑ってしまいました。それにしても、言葉の持つ力、でしょうね、この面白さは…。出だし、「やっかいな連中」と置くことで、この「あっち 行って…」が効果的に作用しているようです。どうしたら、こんな連想が浮かんでくるのか、羨ましい限りです。
作品「きましたよ」も、擬音と擬態語が巧みに使われています。「すとん」「どさ どさっ」「ぎしぎし ぎしっ」「ふんわり ことっ」……。ラスト、「色あせた 郵便受け」とは、ご自分の人生と重ねあわせているのかも知れません。
作品「せんぬき かんきり」のタイトル自身が、ことばあそびの様ですが、なんといっても、この作品のミソは、「レトロブームのおかげ」にあるようです。ブームですから、一時のこと。ここになんとも言えない皮肉と批評性が込められているのだ、と読みました。

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小林 比呂古「どこへ」「さびしいピアノ」
作品「どこへ」は、「せんそう」の「せ」の字も見当たらないのに、この作品のテーマが何かがすとん、と入ってきます。こういう手法で「戦争」を語ることで、一つの境地を切り拓いてくたれのではないでしょうか。
作品「さびしいピアノ」は、「ピアノ」そして「私」が何を訴えようとしているのかは、なんとなく分かるのですが、展開がよく読めず、難解な印象を受けました。特に、ラストの三行はどんな映像を思い描けばいいのか、戸惑いを覚えました。

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村上周司「空は」
現代詩の書き方になっていますが、このテーマ(主題)を詠むのには、この書き方でいいのではないでしょうか。また、何かを説明しようというよりは、イメージをたたみこむようにことばを連ねているのですが、それがこの詩の特徴となっていると思います。「無数の弁が開きはじめる」がとても印象的です。最後、「美しい」としたところに、向日性が読み取れ好感が持てます。中学生以上の子どもたちにぜひ手渡したい作品ですね。全文を引いて見ます。

 空は     村上 周司

私の心は星とともに輝いて
幻想をおびてくる
突然
神々の笑い声が聞こえ
突然異変のように
空は天然色のような発光体となって
無数の弁が開きはじめる
空の轍の中には
一週間ぶんの栄養が流れ
空の扉は
美しい菊の模様をつくって輝いている

              少年詩と童謡「おりおん 55号」より


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伊藤 政弘「けんかのあとの天気予報」
タイトルが面白いですね。「音の雨」が途中から「雨の音」に変化しているのですが、きっと何か「企み」があってのことでしょう。詩は「向かい合う」ものですが、そこから外れて、作者の意図を探るのもまた、楽しみの一つとして許されていいのかも知れません。ラスト一行、「自分の心の雨にそっと傘をさす」は、優しすぎるのでは、と感じたのですが。この辺の距離感というか、文体の使い方が少年詩・童謡と現代詩の違いなのではないか、そんなことを考えさせられました。

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白石 はるみ「朴の木の影から」「大好きな歌」
作品「朴の木の影から」に登場する「おじいさん」は、「祖父」ではなく、どこかの「お年寄り」の事のようです。血縁者の祖父ではなく、縁の無い「おじいさん」にすることで、寓話的な感じになったのではないでしょうか。また、わたしたちは、たくさんの思い出をもっていて、それは、ある「引きだし」にしまってあるのですね。その引き出しには、それぞれ「朴の木の葉っぱ」とか、「ラムネの瓶の蓋」とか、「錆びたクギ」なんていうラベルが貼ってあるようです。
作品「大好きな歌」の、「いっしょに歌おうね」の繰り返しが、弾む気持ちを言い当てていて、とても効果的だと思います。

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鈴木 レイ子「春の雲」
大人と子どもは違う、そんな思い込みに囚われていると…、「うれしかった」のひとことにそのことが凝縮されているようです。世の大人たちよ、自分も子どもだったころがあった、そのことを思いだし、そして大いに誇りにせよ!

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戸田 たえ子「見つけた」「つむじ風にのって」「噺めいた昔の話」
作品「見つけた」を読んでいると、TV番組「はじめてのお使い」の人気の高さが分かる気がします。幼児にとっての「はじめて」…。いえ、わたしたち大人にだって、毎日のように「はじめて」を経験しているはずなのに、と思うのですが。その「はずなのに」を探す旅、…ここに詩を書く動機がありそうです。
作品「つむじ風にのって」は、「しずくちゃん」シリーズのなかの一編。お父さんに買って貰った大事な帽子。風に飛ばされ、木のてっぺんに。しずくちゃんは、「木にあげた」といいます。だって、木だって暑いのだから帽子があったほうがいい、と。この作品もまた、大人の「常識」をがつんと懲らしめてくれています。
作品「噺めいた昔の話」は、イソップ寓話のようでもありますし、新・昔話でもあるようです。昔々は、食い扶持をを減らすために、と「間引き」が公然と行われた時代もありました。そうでなくても、女の子は労働力にならないからと、人身売買や政争の具として扱われもしたのです。今どき、生まれたのが女の子だからといって「なかったことにする」親などいない、そう思っている人たちが多いでしょうが、去る8月17日付朝日新聞夕刊のトップにこんな記事が載りました。【児童虐待 最多12.2万件 26年連続 16年度の児相対応/16年度 84人が死亡】。いま、現在起きていることです。年老いた父親の面倒を親身になってみてくれたのが、名前をつけてもらえなかった娘だった、というオチ。ここから、わたしたちは何を学べばいいのでしょうか。

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しまざき ふみ「エノキダケさん」「月と星」「通い猫グレ子」
作品「エノキダケさん」は、子だくさんであることを誇り、快癒に浸る情景を詠っています。深読みするまでもなく、実は、「食べられる側」からの視点で書かれているのですが、それでも「小ちゃな頭と 細い身を/みんな仲良く 寄せ合って/いい味作る/きょうだいです」と言われると、食べる側のわたしたちとしては何も言えません。
作品「月と星」もまた、イソップ寓話ふうな、というよりも、「サンタさんはいるの?」と聞かれて「ちゃんといるわよ」と答えてあげているのと同じ、子どもに安心感を与えてあげているわけです。もっとも、「またそのうち近づいて/仲良くお空に並ぶのよ」というのは、科学的にも事実そのものですから、大威張りで話してあげていいのですが、「そうあって欲しい」という子どもの気持ちに寄り添ってあげる、それが一番大切なことでしょう。
作品「通い猫グレ子」は、「毎日来れば 何だかかわいい」と思いながらも、「グレ子って名前」を付けてしまうのは、その猫が野良猫だからこその思いが読み取れます。そもそも飼い猫ですら、人間に本心を預けたりはしない、そんな距離感みたいなものが、ある種の魅力でもあるようなのですが。そういう意味では、「グレ子」はぴったりのニックネームかも知れません。

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池田あきつ「小さな草たち」「春はるハル」「風との出あい」
作品「小さな草たち」を読んでいて、…「草(あるいは雑草など)」と一括りで済ましていますが、たとえば大きな草原は、実は、たくさんの小さな草たちがそれぞれに生きているところなのだ、そんなことを考えたのでした。ラスト、「自分のことを 信じている/小さな 小さな ふた葉たち」からは、作者の小さきものたちへの思いが伝わってきます。
作品「春はるハル」は、はじめ、三つの「春」「はる」「ハル」に戸惑ってしまったのですが、それぞれが色んな人たち(老若男女、あるいは人種の違いを越えて)への呼びかけなのですね。二行目、「小さな春」は、ちっぽけな、ではなく、はじまりの、という意味だと言うことは、それぞれの連の「あわてた春」「さいしょの春」ということから読み取れるのではないでしょうか。
作品「風との出あい」は、風はほんとうに不思議な存在、ということをわたしたち教えてくれます。その姿は見えないのに、木の葉が揺れたり、こずえが鳴ったり、…わたしたちは、それが風のしわざであることを、風がたしかに吹いていることを知ります。二連目、風が意外と「おしゃべり」であること、それは、わたしたちにとっても、新しい発見だという気がします。

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いつものように、駆け足での寸評になってしまいました。書き手のみなさんには、申し訳なく思っています。
村上さんが、新しく同人に加わったのですね。「おりおん」の活性化が期待されます。どうぞ、「継続は力なり」を信じて、どんどん新境地を切り拓いていって下さい。応援しています。
今号の「おりおん 55号」は、何か共通の「お題」のようなものがあって、それは、もしかしたら「小さい」なのかな、とふと感じましたが、どうでしょうか…。
また、作品「空は」の全文と、ほかの作品の一部を引用させていただきました。誤字・脱字などのないよう努めましたが、何かお気づきの点がありましら、お知らせ下さい。
また、全文の引用については、事後承諾の形になりますが、論考への引用であること、引用先を明示してあることなどでお許しを頂ければ幸いです。(「織音の会」からは、引用先を明示することを条件に許諾を得ています。)

               ―この項 完―

2017/9/3


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